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徳聖寺の沿革

○徳聖寺の沿革

徳聖寺は、天平8年(736)に行喜菩薩が北陸を巡錫している折、悪病が流行しているのを患い、現在地に薬師如来を本尊として薬師堂を開創したことに始まります。その後は弘安5年(1282)、長岡市蔵王にあった徳聖寺を現在地に移して薬師堂を護ってきました。しかし近年になって、戊辰の役と第二次世界大戦による度重なる戦火によって伽藍は悉く灰燼に帰しました。また、長岡空襲によって先々代の忍識和尚が戦死したため、戦後は先代の啓識和尚と檀信徒の皆さまの協力のよって支えられ本堂が再建されました。しかし、残念ながら薬師堂の再建までには至っていないのが現状です。

○徳聖寺の宗派

徳聖寺は真言宗豊山派のお寺です。豊山派の総本山は奈良県桜井市にある長谷寺になります。また明治以前の徳聖寺は、高野山金剛峯寺を総本山とする古義真言宗に属していたことから、高野山にある明王院を本寺としてきました。明王院は昔から越後のお寺さんの宿坊とされており、越後坊ともいわれています。

○歴代住職

薬師堂

1大仙法印(開基)

徳聖寺

1乗阿(徳聖寺中興第一世)

41見識(吉澤仁太郎親族、徳聖寺再興)

42栄識

43忍識 戦死

44啓識(大僧正・長谷寺集議、徳聖寺再々興)

○徳聖寺の歴史

736 薬師堂開創

1282 徳聖寺中興

1868 北越戦争

1945 長岡空襲

1967 本堂落慶

2004 中越地震

徳聖寺の仏さま

○本尊 金剛界大日如来

大日如来という仏さまです。胸の前で智拳印とよばれるお姿をしています。特にこの姿をしている大日如来を金剛界大日如来といい、私たちを悟りに導いてくれる仏さまとしてほとんどの真言宗の檀信徒が仏壇の本尊として祀っています。

○薬師堂本尊 薬師如来

薬師堂のご本尊として祀られていた仏さまです。住職が1代に1回ご開扉できる秘仏と伝わり、前回は2016年に啓識和尚が米寿を祝ってご開扉しました。薬師如来は病を取り除いてくれる仏と言われています。特に薬師堂が開創された天平年間は全国で疫病が流行していたことから、行喜菩薩が彫刻しました。

○延命地蔵菩薩半跏像

16世紀を示す起債があるものの、弘法大師の作といわれており、それ以前に造られたかどうかはよくわかっていません。また、1864年に発行された紀輿之の「越後土産初編」では、四十八地蔵の一つとされています。

○善光寺如来三尊像

鎌倉時代末期から南北朝時代の作の銅像で、全体に錆が出ています。本多善光が鋳造した四十八体のうちの一つといわれていますが、その由来についてはよくわかっていません。

徳聖寺ゆかりの人物

○初代 目黒重左エ門 5代目 目黒十郎(不詳~1890)

文化10年(1813)、初代の十左衛門が長岡に移り住み貸本屋「鳥屋」を開き、のちの目黒書店となりました。重左エ門は、徳聖寺の延命地蔵菩薩のご利益で、信濃川の増水より助かったと伝わります。

○間霜治郎兵衛

慈善事業を行った商人。安永四年(1775)、天明年間(1781~88)の度重なる洪水によって困っていた人々に舟を出して家におくり食物を与えたと伝わります。寛政年間(1789~1800)の飢饉にも私財を出してまで人々を救ったことから、長岡藩から衣服、幕府から白銀を授与されました。徳聖寺には涅槃像と八祖大師像を寄進されました。

○小野塚喜平次(1870~1944)

東京帝国大学初代総長。上田町に生まれる。総長であった戦時中は頑なに教え子に軍事教練をさせることを許さなかったといわれています。没後は下条町にある専徳寺に埋葬され、町内会によって碑文が徳聖寺に建てられました。

○関嶺宗(1849~1925)

宗偏流の家元総監。小千谷市の俗家に生まれるが出家し、西岩寺、永昌寺、洞照寺、普広寺、吉祥寺を歴住しました。晩年は30年間にわたって徳聖寺で茶道を教授しました。没後は五泉市橋田の吉祥寺に埋葬されましたが、徳聖寺にも分骨されて門人によって供養塔が建てられました。

○大橋佐平(1835~1901)

博文館創設者。上田町に生まれる。母は徳聖寺に帰依して、宝篋印塔を建立し、光明講を創設しました。その功績から母は生前の希望によって徳聖寺に埋葬されています。

○遠山夕雲(1884~1974) 遠山芳夫(1909~1983)

教育者で歌人。坂之上、中島小学校などで教鞭をとり、西越・栃尾小学校の校長を務めた。当山の御詠歌に「金色の御山に仰ぐみほとけの 智慧のみひかり徳のかがやき」を詠みました。また、息子の芳夫も教師となり、表町小学校で教鞭をとるも、戦時中に治安維持法違反の疑いで拘留され、懲役後は北越製紙で勤務した。

1月1日正月
2月3日星祭護摩供・節分追儺会
3月15日涅槃会
3月中日春の彼岸会
7月7日大施餓鬼会大般若会
8月1日盆參会
9月24日秋の彼岸会
○星祭護摩供(星供)・節分追儺会

新しい春を迎える節分に、善い星の方はますますよくなるように、悪い星の方はよくなるように、七難即滅七福即生を願って祈祷する法要です。徳聖寺では不動明王と星祭の曼荼羅を祀って、護摩と呼ばれる火に願いを込めた木をくべて皆さまの所願成就のために厳修します。また法要後には、節分追儺会として、住職が豆をいれた升を持ってその年の年男・年女の力を借りて鬼やらいをします。終わりましたら、はずれなしの福引を行っています。

○涅槃会

お釈迦さまが入滅された旧暦2月15日にその法灯を偲んで報恩謝徳のためにお経をあげる法要です。徳聖寺では2月に雪が多く積もることから月遅れの3月15日に嚴修しています。お釈迦さまが亡くなった時のお姿を描いた大きな涅槃会を本堂に掛けて、誰しもが生まれ持ってきた唯一つの尊い命に感謝して、これからも仏道に精進することを檀信徒の皆さま方と一緒にお祈りします。お帰りの際にはお釈迦さまの舍利(遺骨)が五色に輝いた説話に由来する涅槃団子をお配りします。食べることで健康に、持つことで害虫からの魔除けになるといわれています。

○春の彼岸会・秋の彼岸会

日本では、お彼岸の中日を挟んだ前後3日間の合計7日間をお彼岸と言います。特に、春の彼岸(春分の日)は新しい生命を慈しみ、秋の彼岸(秋分の日)は亡くなった方を偲び、先祖供養を行うことで、自分自身の生活を見つめ直してきました。また、天文学的には太陽が真東から昇り真西に沈むことで昼と夜の長さが等しくなる日とされています。このことから最も早く此の岸から阿弥陀さまのおられる西方にある彼の岸(彼岸)に渡れる日であることから、阿弥陀さまも信仰してきました。また、「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉にあるように季節の変わり目でありますので、皆さまがこれからも健康にお過ごしなられますように亡き先祖の供養をします。徳聖寺では、経木塔婆を供養してお渡ししてます。

○大施餓鬼会

餓鬼に施すことを施餓鬼といいます。餓鬼は餓鬼道に住む鬼で、手に持つものはすべて火に包まれてしまうためにいつも飢えと渇きに苦しんでいます。ある時、お釈迦さまの弟子である目蓮は神通力によって亡き母の姿をみたところ、餓鬼道にて苦しんでいることを知りました。そこで、目蓮がお釈迦さまに尋ねると、お坊さんが夏の修行(夏安居)を終える旧暦の7月15日にお経を読んでもらえばその功徳によって救われると説かれました。大勢の皆さまにお集まりいただき、たくさんの供物を捧げて、大勢の僧侶に読経してもらうその功徳によって、三界萬靈のあらゆる精霊を供養してもらうということで、大施餓鬼会といいます。

○大般若会

『大般若経』600巻を転読する法要をいいます。『大般若経』は、三蔵法師のモデルでお馴染みの玄奘三蔵がインドより請来し漢訳した経典です。また転読とは、それぞれの巻首の経題を詠んだ後は片手に経本を捧げて飜播することをいいます。この法会は、現世安穏・菩提追修を祈願するものと、天変地異といった災異の除却という国家安寧を祈願するものの二つに大別されて行われてきました。日本では703年に初めて行われましたが、疫病退散など願うため臨時に行われてきました。現在では年中行事の一つとして毎年期日を決めて行っているお寺がいいようです。徳聖寺では、十六善神曼荼羅と三蔵法師の軸を祀ってご祈祷します。

○盆参会

当山では、お盆に新しく精霊を迎える檀家さんを招いて、亡き精霊の供養をします。長岡では、盆参朔日として朔日に法要を行う寺院が多くあります。戦時中も同様に行われ、盆参朔日を終えた晩に長岡空襲があり、上田町でも多くの方が防空壕などで被災し、先々代も戦火のなか寺宝を持ち出そうとしたところで息絶えたと聞きます。そういった意味でも長岡の盆参朔日は特別な意味があるので、戦死病没英霊も供養します。

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